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ヴォーリズさんとメガネの和諧堂(わかいどう)、その1またはキリスト教信徒と商い

(事前に記載しておきますが、私どもは特定の宗教的立場にはありません。また特定の政治的立場にありません。)

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留ひとつやなぎめれる)さんと妻・満喜子さんと山本治三郎氏肇氏と京都府宮津市の桟橋で。昭和32年5月25日撮影

4人のまなざし、そして2人のメガネに注目して、満喜子さんのメガネ、拡大鏡で詳細に観察、よく似合い、ヴォーリズさんのボストン型フルメタル、二人とも素敵です!

山本治三郎遺稿集「ともしび」から

信仰実話 最も劇的な事件 一柳米来留 の文章から

バイブルクラスや学生YMCAの創立委員,「創めの家」で起居を共にした6人の一人、邂逅し神の見えざる摂理の御手を感謝する(要約文責塩見昭)

 

和諧堂(わかいどう)の塩見文吉の長男政吉と、いとこが山本治三郎氏。明治38年近江八幡-滋賀県立商業に治三郎氏が学んでヴォーリーズさんのキリスト教に入信した。明治39年卒業、ヴォーリズさんの最初の教え子。しかし山本氏の実家は酒屋、クリスチャンとしての立場と仕事の内容で悩んだ。しかし紆余曲折、卒業後15年後、宮津のふ頭入り口で大正9年4月偶然にも邂逅、「まだその商いをしていると縁を切る」、と言われ運動具を10年、昭和8年近江八幡に移住、30年余り近江兄弟社で働いた。信仰と商い、多くの示唆に富む。

そのころは西舞鶴から福知山市まで馬車で行く、そこから汽車で大阪へ、一泊して近江八幡に行ったこと。滋賀県県立商業学校は商人の士官学校との位置付け、

塩見文吉長男政吉は治三郎氏より早く入学卒業、そのあと、神戸高商で学び東京文泉堂で出版学び明治38年1月には和諧堂店頭写真に写っています。ヴォーリズ氏も排斥され短い教壇でした。政吉が在学中だったらどうだったのでしょう。

この外人の方は誰?から調べて「人と人の邂逅こそ尊い」と思います

商いはお客様の政治的立場、宗教的立場、その他の要件は意識せず。純粋にお困りごと、見えにくさをお聞きする、ただ職業的視線の使い方、目的距離、趣味の内容から距離やレンズ種類、カラーを決めることがあります。

もっと多くのエピソードが書いてありますが著作権の兼ね合いでここまで簡略記載。塩見昭©2021年12月23日

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